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北海道植物文献備忘録②

アーノルド樹木園の初代園長であるサージェント(1841~1927)は1892年秋に来日し,このときの記録をもとに国内の樹木種についてまとめた"Forest Flora of Japan (Sargent 1894)" を執筆した。


その口絵には,見事なカツラの大木と野冊を抱えた日本人の写真が掲載されている。

この日本人は徳淵永治郎(1864~1913)といい,札幌農学校植物学教室の宮部金吾のもとで助手として標本整理を務めた人物である。

徳淵の生涯や研究業績をまとめた高橋(1914)によると,徳淵は体調を崩していた宮部に代わって札幌~渡島~八甲田山をサージェントに案内し,"多大の満足を興えた"らしい。口絵の写真はこの最中藻岩山麓で撮影されたものなのだそうだ。


徳淵は明治時代に非常に多くの植物標本を採集し,そのコレクションは現在北大総合博物館陸上植物標本庫(SAPS)に収蔵されている。牧野富太郎によって徳淵に献名された広義フジスミレViola tokubuchiana Makinoの学名をご存じの方もいるかもしれない(Makino 1902)。SAPSで標本調査をしていると比較的名前を見る採集者のうちの一人であり,北海道における自然史研究に多大な貢献をした人物であることは間違いない。


さて,上記の高橋(1914)は,札幌博物学会会報5巻2号の末尾に掲載されたいわゆる追悼記事である。札幌農学校で助手をつとめた後,徳淵は本州の旧制中学や県立農林学校で教鞭をとった。島根県農林学校では校長代理となったが,同校の卒業生会(卒業式?)で講演中に卒倒し後頭部を打ち,49歳で亡くなってしまった。


追悼記事を執筆した高橋良直(1872~1914)もまた,記事が掲載された年の9月に肺の病で倒れ,11月に42歳の若さで亡くなってしまう(伊藤 1915)。1915年3月に出版された続く札幌博物学会会報5巻3号には,今度は高橋の追悼記事である伊藤(1915)が掲載されることになってしまった。標本庫に深くゆかりのある方ではないので詳しく存じ上げないが,伊藤(1915)によると,高橋は札幌農学校卒業生で,植物病理学分野で業績をあげ,旧制中学で教鞭をとった後北海道庁の農事試験場に勤務した人物とのことだ(伊藤 1915)。


さらに,高橋の追悼記事が掲載された年の8月には,今度はマリモの発見・命名で有名な川上瀧彌が台湾にて44歳の若さで病没してしまう(宮部 1915)。12月に出版された札幌博物学会会報6巻1号には宮部金吾が執筆した川上の追悼文が掲載され,なんと3号連続で会員の追悼記事が掲載されることになってしまった。


壮絶である。同じ時代を過ごした札幌博物学会の会員は深い悲しみに包まれたに違いない。

某研究会の事務局を拝命している筆者としては,会の運営に影響がなかったのかも気になってしまう(きっと少なからず影響があったと思う)。


というか,若くして亡くなる方が今よりもずっと多かった時代(そんなことはわかっている)に満90歳まで生きた宮部金吾の凄さよ。

間にやはり台湾で44歳の若さで早逝した工藤祐舜(1887~1932)を挟んではいるが,陸上植物の分類学分野で宮部から教室や植物標本庫を引き継いだのは舘脇操(1899~1976)である。舘脇は北海道帝国大学出身であるため宮部の直接的な弟子と認識されているが,年齢は39歳も離れている。この時代の研究者の一生分になりかねない時間であり,かなり離れている…と思う。


現在の日本でいうと退官が近い教員が卒論生をとって後継者に指名するようなノリであるが,少なくとも博士号取得までの指導は難しい気がする。ちなみに私の場合,今年退官される研究室の教授であるF先生や前任のT先生と30歳強,すでに大学を退職され総合博物館に出入りしているS先生と約40歳離れている。



…まあ先生方から直接引き継いでいる仕事もあるので,実感がわかないかというとそんなわけもなく,冷静になってみると結構微妙なラインだった。


後半は文献備忘録でなく,ただの感想文になってしまった。



引用文献



2022/11/24 (いつの間にかWixのブログ機能で日付表示ができなくなっていた…)

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